東日本大震災を経験した。
あの日がなければ「地域活性化」や「まちづくり」なんて考えることもなかっただろう。
福島県いわき市出身で多摩大学経営情報学部3年生の城田空(シロタソラ)さん。
あの日をきっかけにどのように生きてきたのか。
なぜ「地域振興」や「まちづくり」に興味を持ち、
そこから希望する仕事ができる企業への内内定を得られたのか、話を聞いた。
感情的な記憶はない
小学校2年生の時、福島県いわき市で東日本大震災を経験した。
班での下校中、歩道橋を歩いていた時の出来事だった。
友人の母親が働くコンビニに逃げ込んだが
商品は床に散乱し、瓶が割れたり、マンホールが外に飛び出したり…
「怖かった」という感情的な記憶はない。
ただ、「そのことが起こった」という事実だけを鮮明に覚えている。
震災から3日後には城田さん家族は父親の実家である千葉県への避難を決め、引っ越しをし、
その後の半年間で千葉→福島→神奈川と3回転校することになった。
転校するたびに環境がガラッと変わった。
自覚はなかったがストレスがあったのだろう、
情緒が不安定で、攻撃的になったり、友達と喧嘩も多い日々だったが、
小学生らしくドッジボールで仲良くなったり、各地で交友を深めた。
この頃から、知らない人の中に放り込まれても順応していく適応力がついていった。
中学は転校先の神奈川の公立中学に進学した。
剣道部に入りエネルギーを向ける先ができたことで、荒れていた心も落ち着いた。
それどころか人をまとめる事が得意になり、部長まで務めた。
勉強面では、塾に通いながらも東日本大震災と熊本地震から避難してきた子ども達のための学習支援プロジェクト「とどろき学習室、よこはま学習室」に通っていた。
高校に入学しても剣道は続けていたが、
進学先は都立の強豪校。
中学の時とは違い試合には出られず「やることがないからやってる」くらいのモチベーションだった。
「何か夢中になれることを見つけたい…」と漠然と思っていた時期だった。
アメリカで自分の現在地を知る。
そんな時、学習室の代表が東日本大震災発生時に岩手、宮城、福島県に居住してた高校生に向けたプロジェクトである、
「TOMODACHIソフトバンク・リーダーシップ・プログラム」への応募を母親に勧めてきた。
実は2年ほど前にも学習室からこのプログラムへの参加者がおり、
「空も行ってみたら?」と学習室の代表から声がかかったのだ。
当初は部活の夏合宿に参加できないことのハンデを心配し、行きたくないとすら思っていた。
しかし強い勧めがあったことと、母親が実は既に申し込んでおり、選考に参加することになった。
ワークショップでは中学での部長の経験を活かし、初めて顔を合わせたメンバーをまとめあげ課題を成功させ、8倍の倍率を突破した。
100名の高校生が参加し、関東地方からの参加は城田さんのみ。
高校1年生の夏休みに、アメリカのサンフランシスコへと飛び立った。
プログラムはサンフランシスコのUCB(カリフォルニア大学バークレー校)に宿泊し、地域貢献とリーダーシップについて学ぶというもの。
ノースリッチモンドという、
奴隷制度の名残りで黒人の多い地域について学び、フィールドワークをし、実際に地域の壁を塗ったり、清掃したりもした。
最後の1週間は岩手、宮城、福島県の3県に分かれ、それぞれの地元について話し合う時間が設けられた。
横浜育ちの城田さんは、小学2年生まで住んでいた福島チームに参加。
そこでまるで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
そこにいたのは、当事者ぶっている自分だった。
福島に住んでいるメンバーは、地元のことをよく理解していた。
原発などの影響で、「どこそこがこんな風評被害で悩んでいる」、「地域による差別がある」など、具体的な情報と、何よりも当事者意識を持っていた。
その課題をどうしたら解決できるのか話し合うメンバーの中で、
自分は地元を離れて当時で既に7年の月日が経ち、震災後に地元がどのように変わったのか、どんな問題を抱えているのかもわからず、すっかり蚊帳の外だった。
学習支援や保養キャンプ、今回のプロジェクトなど被災者としての支援と恩恵をこれまでたくさん受けてきているのに、地元の問題を知らない。
元の問題に目を向けず、ただただ甘い汁を吸っている人間なんだということに気付かされた。
地元に残っているメンバーと、背負っているもの、抱えているもの、覚悟が全く違うということをまざまざと感じた。
それまでの2週間、肩を並べて来たメンバー達が、実は自分よりもはるか先にいたこと、肩を並べるどころか自分は何歩も遅れをとっていることを感じた。
「この遅れをとり戻さないと!」
もっと自分の地元に対して当事者意識を持ち、できることを模索していくためにはまずは自分の地元を知らないといけない。
そう感じ、帰国した翌日に部活を辞めた。
自分のルーツを辿ることで見えたもの。
部活を辞めてからは、地元のことを知るために岩手、宮城、福島県を回り、
震災のことを含めて過去と現状を知るための1週間の東北の旅を企画した。
企画内容はアメリカへ一緒に行ったメンバーのツテをたどり、
各県の震災や地域の問題について実際にみにいくことのできるフィールドワークプログラムだ。
東日本復興支援財団からの助成金を勝ち取るため奮闘し、最終的に10万円の助成金がおり、高校1年生の春休みにプロジェクトを敢行した。
実際に東北を訪れ、仲間に案内してもらい、自分の目で見て感じた1週間だった。
実際にその場に出向き、地元の人と話すことで、県外から見ているだけじゃわからない現実を、自分の中に落とし込んだ。
この経験を元に、進級後は「まちづくり」「防災」「原発」の三つの柱で活動し、高校生活のメインを学外での活動へとシフトさせた。
自分の道を切り開く
高校時代にはユニセフの事務局長が運営している、関内の(日本酒の)コンセプトバーでアルバイトも経験した。
そこでは、単なる「時間とお金の交換」ではなく、出会う人たちから時給以上のものを得るという体験をした。
「大人ってこういうもの」という今までの自分の固定概念を覆すような、様々な生き方、仕事の選び方をする人たちがいることを知った。
「どんな人生を選んでもいいんだ。」
そう思えたことが、自分の人生の選択肢が増えるきっかけになった。
また、第一志望の大学とは縁が無かったため、
大学名で勝ち抜く就職活動はできないだろうと踏んだ。
このハンデをどう乗り越えたらいいか、と考えた時に
時間以上の経験を得られて、就活にも有利になる有給のインターンに挑戦しようと決め、大学入学前の3月からインターンを始めた。
インターンとは、自己分析のためのツール
Wantedlyで興味が持てる単語で「まちづくり」「企画」「マーケティング」で検索。
早速、テレアポマーケティングという職種で渋谷でインターンを始めた。
300人ほどの学生がおり、マーケティングというよりもテレアポ代行の会社だった。
高校生までは企業がどのように資金を動かし、
どのようにして利益を生み出すのか知る由もなかった。
ここのインターンでは営業をするために様々な企業の資料を読み込むことで、
30社ほどのビジネスモデルを学んだ。
大学1年生の冬には、ゼミの教授の繋がりで株式会社キープ・ウィルダイニングという町田にある飲食店のプロデュースや、コンサルティングを行う企業で3日間ほどの短期インターンを紹介された。
飲食店には地域の人が集まり、飲食店の外装や活気が街を彩っていく。
そう考え、まちづくりと飲食店は深い関係があると思い参加を決めた。
実際にはこのインターンは早期選考に当たるようなものだったが、
当時はまだ大学1年生、金髪アフロで面接へ向かった。
結果は合格。
3日間のインターンプログラムが終わった後で、
「1年生だからこのまま選考に繋がることはないと思うけど、せっかくのご縁だから長期でインターンをやらせてください!」
と人事担当者に直談判。
その年の3月から10月まで、町田にある薬師池公園のファーマーズマーケットの企画者として長期インターンを行った。
薬師池公園は休日ともなると5000人以上が来園する大きな公園で、
地域に根ざした公園であったため、地域で活動している生産者と話す機会も多く、その人たちと一緒に作っていくんだということを強く意識する場面も多かった。
また、まちづくりというと「不動産開発」などを思い浮かべる人も多いが、
城田さんは地域でビジネスを起こし、新しい価値を生んだり、再発見したいという気持ちが強く、
そういう意味でも自分のやりたい方法で「まちづくり」と関わることができた。
ひとりよりも、みんなで。みんなで、より遠くへ。
城田さんは就職活動を始める前から大切にしてきたことがある。
それは「一人でできることは限りがあるけど、色々な人を巻き込みながらやれることは無限大だ」という気持ちから、「支援者になれること」だ。
プレイヤーではなく、なぜ支援者なのか?
これだけの行動力があれば、自分で動きたくないのか?と聞いてみると、
「早く行きたいなら1人で行きなさい、遠くに行きたいならみんなで行きなさい」
というアフリカの諺が返ってきた。
現在所属している学生団体も、学生団体自体で何かを活動をしているのではなく、「学生団体同士をつなげる」というマッチング業務をする中間支援組織だ。
「自分たちだけが活躍できたらいい。」という意識ではなく、
より多くの人に活躍できる場を提供しようと試みている。
まちづくりにおいても、個人ではなく周囲を巻き込んで大きなことを成し遂げようという意識がとても重要だ。
だからこそ、さまざまな場所でプレイヤーとして頑張っている人たちを
自分が支援することで、プレイヤーの活動を100%から150%にする事ができる。
この関係を増やしていけばいくほど、自分自身のパフォーマンスが200%になるよりも、より多くのものを変え、
より大きなパフォーマンスに繋がるはずだと考えた。
自分自身がプレイヤーとしてバリバリ動くよりも、
さまざまな人に自分のエネルギーを分け与えることによってその人たちのパフォーマンスを上げたい。
それが最終的には全体の底上げにつながり、地域全体、日本全体が活性化されるのではないだろうか。いつかそんな支援ができるHUBのような人になりたい。
そんな思いを実現できるような企業を探した。
支援者というスタンスを、企画職で。
就職活動では大手人材企業パーソルキャリア株式会社の企画職の内定を頂いた。
実はサマーインターンをきっかけに、中小企業向けのコンサルティング会社から3年生の8月には内内定が出ていたが、
並行してパーソルキャリアのBRIDGEという「意志ある未来の事業家のための
事業創造人材育成型インターンシップ」へも参加した。
実はそれまで全く人材業界には興味がなかったという。
インターンへの参加は、純粋にインターンの企画自体に興味を持ったことが理由だった。
全3ヶ月のインターンでは個人でプレゼンやビジネスモデルを構築して、
社員を相手にプレゼンテーションしたり、
チームでも与えられたテーマに沿って新規事業開発を行ったりした。
それまで人材業界は人と仕事のマッチングをする仕事というイメージがあったが、BRIDGEに参加したことで人材業界を俯瞰することができた。
人材育成や国全体で考えた時に人的リソースの流れなどに影響を与えられることを考えると、コンサルティングだけがまちづくりではないな感じた。
最後まで内定先をどちらにしようか悩んだが、自分の提供できる価値の範囲が広がるという理由から、企画職を選んだ。
どちらの企業のビジョンにも共感しているが、パーソルキャリアであれば他ではない規模感で仕事をすることができる。
規模感が大きければ大きいほど、影響範囲も大きくなる。
企画職であればたくさんの人を巻き込んで仕事ができる。
それが決め手となった。
城田さんは複数の様々な形のインターンに参加したが、
結果だけを見ると一つ目のインターンは将来やりたいことに直結するものではなかったかもしれない。
しかし、インターンをし企業で働くという環境に飛び込んでいくことで、
業界や職業を知り、実際に仕事をするということが、自分にとってどういうことなのか、自分自身を知ることができる。
「自分はこういう人間だ(≒こういう人間でありたい)」という机上の空論の自己分析よりも、
実体験をもって自分自身を知り、自分のやりたいこと、苦手なことを知ることができる。
複数社での経験があったからこそ、「何に関わるか?」ではなく、「どう関わるか?」で最終的な意思決定ができたのではないだろうか。
飛び込んでみてから、考える。
自分のやりたい事が何かわからない。
そう悩む学生もいるかもしれない。
そんな時は「悩んでいるならやっちゃった方がいいよ」と城田さんは言う。
城田さんは「こうなりたい」という思いをアメリカへ渡った高校生の時からずっと持ち続け、行動をおこし続けた。
就職活動で大学名で勝負できないなら、他で勝負をできるようにする。
始める前から諦めずに、金髪アフロでも果敢に面接に挑戦する。
そんな向こうみずなガッツが時には必要であり、
行動した結果が自分に返ってくる。
アルバイトの代わりにやってみようか!
「この業界は興味がないけど、面白そうなインターンをやっているから行ってみようかな?」という気持ちでもフットワーク軽くインターンに挑戦してみよう。
自分にはどんな職種が合うのか?という誰に聞いても答えのない疑問を、就職活動の前に自分自身で解決するチャンスだ。
「働く」という事に対しての漠然とした不安も、飛び込んでみれば払拭される。
自分で体験したからこそ、得られる答えがきっとそこにはある。